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hiroyuki saito

日本の近現代史を中心に歴史を深掘りしていきます Propaganda Buster

歴史 

バイデン親子ウクライナ汚職事件(ジュリアーニ弁護士)
公開日時: 2020-11-27 17:07:31


バイデンのウクライナ汚職 

 

バイデンが、barisma、という会社のトップである、nikora、 zioszewskiから、わいろを受け取った。 

バリスマは、ウクライナの石油会社である。 

バイデンが関わっている人たちは、かなり組織化された、犯罪者集団やスパイであろう。 

zioszewski は、 barisma という会社を持っている。 

彼がエネルギー大臣出会った時に、不正な方法で設立した。 

彼は、自分の会社に、ウクライナの最高の鉱業権を、全て、与えた。 

80億ドルの価値があった。 

政府が倒れるように見えた時、50億ドルを盗んだ。 

Puroshenko新大統領が、彼からそれを取り上げることをやった。 

彼は、すぐに新大統領は、旧大統領ほどではないにしても、同じくらいに、大きな詐欺師であることがわかった。 

彼は、ジョーバイデンが、オバマ政権の交渉役として現れた時、ウクラいなのもっとも力のある人物が、ジョーバイデンであることがわかった。 

なぜなら、彼が、ウクライナに流れる、全てのお金を、コントロールしたからである。 

そして、ウクライナには、80万ドルが銀行にあった。 

ジョーバイデンは、デラウエア州での上院議員時代、20年間、兄と不正な取引があり、そのことを、マスコミに知られないようにしていることを、 zioszewski は知っていた。 

その取引は、総額1400万ドルから、1500万ドルになるもので、そのほとんどが、息子のハンターの、秘密の仕事として支払われた。 

今は、ジョーバイデンは、他の理由で、ハンターを雇わないだろう。 

なぜなら、ハンターは総合的に不適切だからである。 

すでに、会社を破綻させたし、コカインテストもクリアできないし、米国海軍を退任させられたから。 

ハンターは、ウクライナの暴力団員の仕事しか、事実上なかったのである。 

ジョーバイデンは、息子が、薬物中毒に犯されていたにもかかわらず、ウクライナのもっとも悪質な人物のために、仕事をさせた。 

薬物中毒が悪化するための、確実な方法である。 

ハンターの父は、まともな親なら、決してしないようなポジションで、息子を働かせた。 

人は、我が子にこのようなことは、決してしない。 

バイデンは、金を稼ぐことのために、極めて貪欲で、息子に悪質な仕事をさせたのだ。 

バイデンは、決してウクライナに行かなかった。意味のあることを何もしなかった。 

しかし、バイデンは、月に16万6千ドルが支払われた。合計で500万ドルから600万ドルが、そのように支払われた。 

このようにして、バイデンは、合計300万ドルの追加のマネーロンダリングを受け取った。 

バイデン家は、わいろで、約1400万ドルを手に入れ、バイデンの息子は、その仕事をした。 

検察官のshulkinが、会社を引っ越そうとしていた時に、 

彼は、すでに彼らを逮捕して、彼の資産を押収しようとしていた。 

バイデンは、告白の中で、自分の言葉で説明しているように、バイデンは、poroshenkoに、「あなたは、検察官を追い払う必要がある。そうしないと、ウクライナの存続のために、重要な10億ドルの貸付保証を、得ることはできない」と、説明した。 

これが、わいろです。 

公的な行動を、価値のあるものに変更させながら、poroshenkoは、彼に申し出た。 

いやporoshenkoではなく、zioszewskiが申し出た。 

事件を解決するために、1400万ドル。 

これが、行動に対する等価価値です。 

バイデンは、同じことを、poroshenko にした。 

検察官の解雇と引き換えに、彼に10億ドルの貸付保証。 

この2つの贈収賄事件が、起訴状で1つの根拠となる。 

バイデンは、少なくても懲役15年以上で、永久公職追放となるだろう。 

 

 


徴用工は、仕事を求めてきた出稼ぎ労働者
公開日時: 2020-11-27 08:01:19


徴用工は、仕事を求めてきた出稼ぎ労働者



日本統治時代の朝鮮半島から多くの朝鮮人が、日本に強制的に徴用されてきた、と主張する国や団体があります。
 

本当に当時の朝鮮人たちは、強制的に日本に連行されてきたのでしょうか?
 

当時の朝鮮人は、日本人として扱われていたので、朝鮮人としてパスポートを持って日本に入国する必要はありませんでした。


しかし、全く自由に内地(日本列島)に渡航できたわけではなく、旅行証明証の提示を義務付けられていました。
 

いつ頃から、この渡航証明制度ができたのでしょうか?


大正8年(1919年)3月1日、朝鮮の独立運動を行っていたキリスト教、天道教、仏教などの宗教指導者たち33名が、3月3日に朝鮮国王の高宗の葬儀が行われるのにあわせて、ソウル市内の公園に集まり、独立宣言を朗読。


そこに集まった学生など数千人の人々が、市内をデモ行進。


やがて、このデモ行進が朝鮮全土に広がり、暴徒化。警察署・村役場・小学校等が襲われ、放火・投石・破壊・暴行・惨殺も多数行われる事態に。(3.1事件)


この3月1日のクーデターをきっかけとして、翌月の大正8年4月から、朝鮮人が朝鮮半島から日本に渡航するときは、所轄警察署から旅行証明をもらい、出発地の警察官への提出を義務付けるようになりました。


そして、それまでの武断政治から文民政治へと転換するため、日本政府は、長谷川好道を更迭して、斎藤實(まこと)男爵を朝鮮総督に送りました。


大正8年(1919年)9月、朝鮮総督に就任した斎藤實(まこと)男爵は、政務総監となった水野錬太郎とともに、南大門駅(現ソウル駅)において、テロリスト姜宇奎(カン・ウギュ)によって爆弾を投げつけられました。
 

この事件で2人は無事でしたが、護衛の警察官など37名が死傷しました。


(1962年、韓国政府は、テロリスト姜宇奎(カン・ウギュ)に、建国勲章大韓民国章を叙勲し、ソウル駅前に銅像を建立。)
 

通常でしたら、このような事件が起きると強硬な態度を取ってもおかしくないのですが、斎藤實(まこと)男爵は、高圧的な態度を取る代わりに、寛大で友好的な姿勢を取り続けました。


東京の軍や官僚から非難を浴びようとも、時間をかけて朝鮮の人々の幸福と繁栄を成し遂げようとしました。

(”The Christian Advocate" メゾシスト教会 ハーバート・ウエルチ著)


具体的に朝鮮は、どのような物質的発展を遂げたのでしょうか?


朝鮮の人口の82%は農業従事者でした。耕作面積は1912年で1060万エーカー(約42900平方キロ)。1923h年では1500万エーカー(約6万平方キロ)と11年で1.4倍。
 

農作物の推定原価は4億3500万円から11億6900万円に上がりました。
 

これは農業金融の組織化と荒地の開拓、農法の改善などによります。
 

1912年時点の未償還の農業貸付金額は500万円未満でしたが、1923年には1億3400万円以上となり増加の大部分が農業の様々な改良のための投資にあてられていきました。


養蚕の生産高は、1910年で40万円にすぎませんでしたが、1923年では2600万円にまで増加しました。


林業では、併合前までは、森林保護はほとんど無視されてきました。


そのため、薪や建築資材の深刻な不足と、はげ山が、雨季の大量の降水量に耐えられなくなり、毎年深刻な土砂災害を誘発していました。


1911年、朝鮮総督府は新たに造林規定を設けました。


併合以来、10億以上もの苗が、朝鮮の森林を再生するために植えられていきました。


政府はさらに、森林組合の結成を促進して、1925年にはこれらのうち350の組合で総組合員数がほぼ100万人になりました。


漁業では、漁法の改良、水産物の保存や包装方法の改良がなされて、1912年の漁獲高は800万円に対し、1921年は4500万円に増加。
 

鮮魚の輸出高は1912年は13万8千円に対し、1921年は700万円以上に増加。


製造業では、併合前までは、商業や産業の進歩は深刻に阻害されていました。それは貨幣システムの劣悪な状況、生活と財産への不安、怠惰で腐敗した政治によるものであります。


また、産業の様々な分野の科学的研究から得られるであろう恩恵に対しても、韓国政府の関心が不足していたことが原因でした。
 

これらの問題の一つ一つに対して、朝鮮総督府は大幅な改革をして行きました。


その結果、1912年の貿易高88,101,000円に対し、1921年は450,658,000円と、9年間で5倍以上に増加しました。
 

日本が朝鮮半島を併合したことで、朝鮮の産業は飛躍的に発展して行きました。
 

このように朝鮮半島内において、飛躍的に産業が発展していったことで雇用も創出されていったのですが、それにも増して朝鮮人の人口が急激に増えていったため失業率も増えていきました。


この旅行証明制度は、大正11年(1922年)12月、朝鮮総督府が廃止に。
 

翌年の大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が発生。
 

関東大震災後の復興事業のための労働需要が増えたので、多くの朝鮮人労働者が仕事を求めて日本内地へやってきました。


その数は、大正13年(1924年)時点で12万人。
 

大量の朝鮮人たちが日本にやってきたために、今度は日本内地での労働力が過剰となり、失業者が増えてしまいました。
 

そのために、日本政府の内務省は、朝鮮総督府に対して、朝鮮人の日本内地への渡航を制限するように要求。


朝鮮総督府は、この要請を受けて、一定の条件を満たさないと日本内地に渡航できない、という制限を設けました。


しかし、この渡航制限にもかかわらず、その後も仕事を求めて、朝鮮半島から日本内地へ渡航する人は増え続けて、昭和3年(1928年)時点での日本内地に住む在日朝鮮人の数は、24万人に上りました。


このままの勢いでは、ますます日本内地での失業率が増える一方。


この日本内地の失業問題と在日朝鮮人の問題について、昭和4年(1929年)12月、日本政府の内務省と拓務省、そして朝鮮総督府が合同で協議しました。
 

「朝鮮側での地元阻止(渡航制限)を継続奨励するとともに、特に労働者の援産事業を起こし、なるべく朝鮮内で就職できる道を開く」ということを決定。


朝鮮人が日本内地に仕事を求めて出稼ぎに来るのではなく、朝鮮半島の中で雇用を創出するようにしようとしたのです。


この当時、朝鮮人が朝鮮半島の釜山から日本に出発する前に、その釜山港の桟橋にある水上署出張所調査室において、朝鮮人労働者は、戸籍謄本と再渡航証明書を提示することが義務付けられ、
 

また、朝鮮人学生は、所属する学校の在学証明書を提示することが義務づけられていました。


さらに目的地などについて口頭での調査をしてから、朝鮮人に渡航伝票を交付していました。

(「在日朝鮮人処遇の推移と現状」森田芳夫著 法務研究報告書)


この渡航伝票がもらえない朝鮮人たちは、密航船に乗ってまでして日本内地に渡航してきました。


昭和7年(1932年)1月8日、代々木練兵場で行われた陸軍始観兵式から皇居に戻る途中、昭和天皇を乗せた馬車が、桜田門の外で警視庁前付近を通った時、朝鮮人テロリスト李奉昌が、手榴弾を投げつけました。

(桜田門事件)

幸い、暗殺未遂に終わり死傷者はでませんでした。
 

この事件の黒幕は、上海で独立運動をしていた、大韓民国臨時政府の金九でした。
 

(のちに建国された韓国は、テロリスト李奉昌を、独立三義士として建国勲章と記念切手を発行し、独立記念館で顕彰しています。)


昭和7年(1932年)1月28日、上海で国民党軍と日本海軍陸戦隊との軍事衝突が発生。(第一次上海事変)
 

この戦闘がほぼ収束にむかった頃、4月29日の天長節に合わせて勝利を祝う記念式典を開催することとなりました。
 

昭和7年4月29日、式典の会場である上海の虹口公園(現在の魯迅公園)に日本軍の要人たちが集まり、わずかな隙を見計らって、その要人に向けて朝鮮人テロリスト尹奉吉が爆弾を投下。
 

(上海天長節爆弾事件)
 

このテロ事件により、上海派遣軍司令官の白川義則大将ら数名が死亡。また重光葵(終戦後、戦艦ミズーリ上で降伏文書に署名した外相)が片足を切断。そのほか数名が重症を負いました。
 


この事件の黒幕も、独立運動家の金九でした。この事件後、日本海軍と陸軍、特高警察などが、血眼になってこの金九を探しましたが、ついに見つけ出すことができませんでした。


(のちに建国した韓国は、テロリスト尹奉吉に対して、独立運動の義士として建国勲章と記念切っ手を発行し、独立記念館で顕彰しています。)
 

このような朝鮮人による凶悪なテロ事件が相次いだため、日本内地に住む在日朝鮮人に対する警戒を厳重に行うようになっていきました。


昭和7年10月からは、日本内地に渡航する朝鮮人全員に対して、朝鮮半島内の所轄警察署または駐在所で交付した、身分証明書を所持させる制度が実施されました。
 

若い朝鮮人では、学校が発行する在学証明書を偽造したり他人の証明書を使用したりして、日本内地に不正に渡航する人が多くいました。


なぜ、そこまでして、朝鮮人たちは日本内地に渡航しようとしたのでしょうか?
 

朝鮮併合時の1910年、朝鮮人の人口は1313万人でしたが、日本が朝鮮を統治してから32年後の昭和17年(1942年)には、2553万人に増加。(この他、日本内地に200万、樺太、ソ連、満州に200万人)
 

わずか32年で約2倍に人口が増加したのです。
 

この爆発的な人口増加のために、仕事が見つからない失業者が急増。そのため、朝鮮半島から密航してまで日本内地へ仕事を求めていったのです。


昭和13年(1938年)3月、朝鮮総督府は、日本政府の内務省と厚生省と協議をして、次のような取り決めをしました。


1、内地側は労働者以外の一般朝鮮人の渡航は自由であることについて、その趣旨の徹底に努め、朝鮮側が発給した証明書を尊重して、二重取り締まりの弊害を避ける。


5、内地在住の不良朝鮮人は、内地側当局が強化指導につとめ、朝鮮に送還することを控えること。ただし、内地側の協和事業を妨害するものは送還すること。
 

6、内地の雇用主で、朝鮮内から労働者を募集する者に対しては、内地在住の失業朝鮮人から雇用するように勧告し、朝鮮内から新規の労働者を不正の方法で誘因しないよう取り締まること。


など。


朝鮮総督府では、朝鮮半島にて大規模なダム建設やインフラ整備、農地開拓など殖産興業を盛んに行いました。しかし、この急激な人口増加に伴う失業問題を解決するには不十分でした。
 

その出稼ぎ労働者の数は、昭和に入り年間10万人を超え、昭和15年以降は年間20万人を数えました。


(「数字が語る在日韓国・朝鮮人の歴史」森田芳夫著)
 

日本統治時代、朝鮮人は、行きたくないのに日本に無理やり強制連行されてきたと主張します。


しかし、その実態は、仕事を求めて密航までして日本にやってきた出稼ぎ労働者でした。


参考図書

「在日・強制連行の神話」鄭 大均著

「The New Korea」 アレン・アイルランド著

画像

第二君が代丸(済州島と大阪を結ぶ定期船。多くの朝鮮人の出稼ぎ労働者を運びました)


【海軍省 練習兵用 歴史教科書】22. 秀吉の唐入りと朱印船貿易
公開日時: 2020-11-26 14:20:36


(3)對外政策とその推移 

 

新時代の海外発展 

 

我が吉野時代から戦国時代にかけて次第に隆盛に赴(おもむ)いたわが国民の海外雄飛の気運は、ヨーロッパ人の来航以来、国民の世界知識の発展と国家的自覚の昂揚とに伴って著しく興隆(こうりゅう)し、我が商船は遠く南洋諸島及び東部印度支那半島にまで進出するようになった。 

秀吉はこのやうな時代に国内を統一した。 

而して當時の潑刺たる海外発展の気運は、遂に秀吉をして空前の雄圖(ゆうと)を決行せしめるとともに、国民の海外進出もまたその奨励と統制を得て空前の活況を呈することとなった。 

 

秀吉の雄圖 

 

即ちこれよりさき信長は、明及び高麗の滅後半島に興った朝鮮と通商貿易を企圖して不成功に終わったが、秀吉はその後を承け更に雄大な意図を以て明・朝鮮のみならず、遠く臺灣(たいわん)・呂宋(るそん)・印度に対してもことごとく我が国への入貢を促した。 

 

このことは實に元寇以来の我が国民の海外発展の気運が、最高調に達したものであったということができる。 

 

而して明・朝鮮がわが要求に応じなかったため、秀吉は遂に討明・征韓の大軍を起こしたが、その雄図は後陽成(ごようせい)天皇を北京に奉じ、秀吉自身は寧波(にんぽー)に於いて支那全国を統一しようとする實に雄大なものであった。 

 

東邦発展の基礎 

 

この秀吉の大陸経営の一大壮挙は我が水軍の不振と秀吉の薨去(こうきょ)とによって成功するまでには至らなかったが、大陸進出に一歩を印(いん)したことは、そのほかの対外政策とともに我が国民の海外発展の気運をますます旺盛ならしめた。 

殊に秀吉の雄図が、我が国を盟主として東亜の諸国を一丸とする共栄圏を建設しようとする遠大な理想に基づくものであったことからして、秀吉がその後大いに南方諸国との通商貿易の振興を図り、国民の南方発展の基礎を築いたことは、当時の内外情勢に鑑(かんが)みて頗(すこぶ)る大きな収穫であった。 

 

朱印船貿易の奨励 

 

即ち秀吉は国民の海外奨励のため文禄元年(皇紀2252年)、京都・堺・長崎の富商8人を選び、その商船に貿易公許の証たる朱印状を与へて外国貿易を特許する方法をとり、ここに我が商船は秀吉の保護を得て遠く呂宋・印度及び東部印度支那半島の沿岸にまで進出し、盛に活躍することとなった。 

これを朱印船といひ、その活動は後に徳川家康の時代における朱印船貿易大発展の基礎となったものである。 

 

家康の対外政策 

 

家康は内治外交ともに概ね秀吉の政策を受け継いだが、その対外政策は極めて堅實な手段を選び、安南(あんなん)・太泥(ぱたに)・呂宋(るそん)・東埔寨(かんぽざい?)などの南方諸国に對してはこれと和親を計って通商貿易の振興に努めた。 

また家康は久しく絶えてゐた明・朝鮮との通交を恢復することに努め、對島の宗(そう)氏の斡旋(あっせん)によって先づ朝鮮との修好復舊(ふっきゅう)に成功し、明との間には遂に修交が結ばれなかったが、商船の往来は次第に活潑に行はれるやうになり、やがて明が亡んで淸(しん)が興ってから後も、日清貿易は長く平和のうちに続けられた。 

 

西洋諸国との通商 

 

更に家康は廣く西洋諸国との通商をも求めてポルトガル・イスパニヤ兩國との交易を奬勵し、また直接メキシコ(濃毘數般 のびすばん)との通商を開かうとして慶長(けいちょう)15年(皇紀2270年)、京都の商人田中勝助(たなかしょうすけ)をして同地に渡航せしめた。 

ヨーロッパに於ける新興のイギリス・オランダ兩國との交易を始めたのもこの時代のことである。 

 

世界情勢の變化 

 

當時ヨーロッパに於いては、長く世界の制海権を握って植民政策に成功し、富裕を極めたイスパニア・ポルトガル兩國が漸く衰へ、これに代わってイギリス・オランダ兩國が新興勢力として新たに世界に雄飛しつつあった。 

(い)オランダの興起 

 

オランダははじめイスパニヤの属領であって、本國イスパニヤ商人の舶来した東亜の物資を北欧に売って勝利を得てゐたが、新教を奉じて本國と信仰を異にした関係から、我が天正(てんしょう)9年(皇紀2241)、遂に独立を宣言した。 

而して独立後数年にしてイスパニヤの無敵艦隊をイギリスと聯合(れんごう)して破るに及び、ここに西・葡兩國全く壓倒し、慶長7年(皇紀2262)には東印度會社を起こして東亜発展の基礎を確立し、南洋諸島を次第に侵略してジャバのバタビヤ(ジャカルタ)に根據を定め、盛に太平洋經略を行ひはじめた。 

 

(ろ)イギリスの海外雄飛 

 

またイギリスもその海外雄飛は先に我が戰國末期、その國民が多く海賊となって西・葡兩國の植民地・商船を大いに荒掠(こうりゃく)した時にはじまり、やがて我が後陽成(ごようせい)天皇の天正16年(皇紀2248)、イスパニヤの無敵艦隊をイギリス海峡に破ってからは、恰(あたか)も我が元寇の撃攘後のやうに國民の海外発展の気運は勃然(ぼつぜん)として起り、オランダと協力しつつイスパニヤ・ポルトガル両国の制海権を奪って植民地を併せ、早くも慶長5年(皇紀2260年)には東印度會社を設立して、マドラス・ボンベイなどに據(よ)り、印度の内亂(ないらん)に乗じてその經略を努めるとともに、次第に侵略の魔手を東亜に伸ばし始めつつあった。 

 

英・蘭兩國の東亜進出 

 

かくてイギリス・オランダ兩國は轡(くつわ)を並べて東亜に進出することとなったが、兩國の植民政策は西・葡兩國を凌(しの)いで更に巧妙を極め、西・葡兩國の海外貿易が王室独占の機構によって営まれ、主として武力行使による威嚇によって植民地經営に當ったのに反し、英・蘭兩國は東印度會社に特権を與へ、その活動により、資本の力を以て植民地を経営せしめ貿易を行はしめたので、兩國は忽(たちまち)ちにして東亜經略に多大の成功を収め、ここに東亜の形勢は一變(いっぺん)して我が国はこれらの兩國と新たに通交を開始することとなったのである。 

 

英蘭兩國との通交 

 

即ち慶長5年(皇紀2260)、東亜に派遣せられたオランダ商船がたまたま豊後(ぶんご)に漂着(ひょうちゃく)した時、家康はその乗組員たるオランダ人ヤン=ヨーステン、イギリス人ウイリヤム=アダムス(三浦安針 みうらあんじん)を江戸に招き、外交顧問として滞留せしめてこれに海外の情勢を聞いたが、これを機縁(きえん)としてやがて慶長14年(2269)にはオランダと、同18年(2273)にはイギリスと相次いで修好を結び、平戸(ひらと)に兩國の商館が設けられた。 

 

朱印船貿易の盛況 

 

かくて東西諸國の商戦は多く我が港に集り、我が商人の海外雄飛の気運もまた大いに刺戟せられた。 

このやうな趨勢(すうせい)に對して家康は國民の海外貿易に大なる保護を與へ、秀吉のはじめた朱印船貿易の制度を更に擴充(かくじゅう)した。 

かくて京都・大坂・堺・長崎等の豪商をはじめ、西南地方の諸大名、近畿の緒寺院等は頻(しき)りに朱印船を支那・印度・南洋諸島に送って盛に貿易を行い、江戸時代初期の海外貿易は前代を凌(しの)ぐ活況を呈した。 

その盛況は慶長9年(2264)から元和(げんわ)2年(2276)に至る13年間に、朱印状の下附數が179通に及んだことにも窺(うかが)はれる。 

 

豊臣秀吉の雄圖 

 

1.大唐都へ叡慮(えいりょ)うつし申すべく候。其の御用意あるべく候。明後年行幸せらるべく候。 

 

1.大唐関白は秀次へ譲らせらるべく候。然れば都の廻(まはり)百ヵ國御渡なさるべく候。日本関白は大和中納言(羽柴秀保/はしばひでやす) 備前宰相(宇喜多秀家)兩人の内、覚悟次第仰せ出さるべき事。 

 

1.高麗の儀は岐阜宰相(羽柴秀勝)か、然らずば備前宰相置かるべく候。然れば丹波中納言(羽柴秀俊)は九州に置かるべく候事。 

 

1.震旦國(しんたんこく/支那)へ叡慮ならせられ候 路次(ろし)、例式行幸の儀式たるべく候。御泊々は、今度御出陣道路、御座所(ござしょ)に然るべく候。人足(にんそく)、傳馬(てんま)は國限に申し付くべき事。 

(秀吉書状) 

 


映画マークテイラー「トランプ予言」を見ての感想
公開日時: 2020-11-25 18:58:21


映画「マークテイラーのトランプ予言」をみての感想になります。 

 

主人公のマークテイラーは消防士。真夜中に突然、出動のベルが鳴ると飛び起きてそのまま消防車にて出動。 

火事の炎と煙の中に入り、人命救出をしたり、消火活動する仕事をしていました。 

 

しかし、手が震えたり、夜中にうなされる日々が続いたので、病院で診察を受けると、PTSDの診断を受けました。 

 

そして、彼は、20年間勤めた消防士の仕事を辞めることを決断。 

 

退職した後も、夜中にベッドの上でうなされて苦しむ日々は続きました。 

 

そんな時、彼は、「声」を聞くようになります。その声を忘れないためにノートに書き留めるのを習慣にしていました。 

 

ある日、夜中にテレビを見ながら椅子で寝ていたら、はっと目を覚まして「声」を聞きました。 

 

その声の主は言いました。 

 

「今、きみは、大統領のスピーチを聞いている」と。 

 

そのテレビから流れていたスピーチの声は、ドナルドトランプの声でした。 

 

しかも、これは2011年4月28日の出来事であり、この時点ではまだ、トランプは、大統領選挙の予備選において、共和党指名候補に任命さえされていませんでした。 

 

翌年の2012年、トランプは、大統領選挙を諦め、自分が出演しているテレビ番組である、「アプレンティス」を続けることに。 

 

4年後の2015年6月16日、トランプが、大統領選挙に出馬すると表明。 

 

それを聞いたマークテイラーは、2011年4月に聞いた「声」を思い出します。 

マークは、PTSDの治療のために通院している主治医に、このことを話すと、その医師は、敬虔なクリスチャンである奥さんに相談しました。 

 

マークテイラーが、今まで書き記したノートを読んで感動した彼女は、トランプのために祈りをする、国際的なカンファレンスコールを組織していきました。 

 

そして、選挙当日。トランプは、それまでのほとんどのマスメディアの予想を覆して、奇跡的な大勝利。 

 

まさに、神の御技(みわざ)としか思えないような出来事でした。 

 

 

マークテイラーが2011年に心の中で聞いた声 (Lord God)が、現実となって目の前に現れたのでした。 

 

就任後も、中東を和平に導いたり、大減税を行ったり規制緩和をするなど、経済を立て直して、失業率も史上最低レベルまでにしたりしました。 

 

また、犯罪の温床となっている、メキシコからの不法移民を防ぐために壁を作ったり、中共との不公平な貿易を是正するなど、今までの政権が為しえなかった数々の業績を行ってきました。 

 

これらもみな、Lord Godからの「声」として、マークテイラーが書き留めてきた内容と、一致するものでした。 

 

そして、 Lord God は、過去5人の歴代大統領についても語っています。 

その5人とは、オバマ氏、クリントン氏、ブッシュジュニア氏、ブッシュシニア氏、カーター氏です。 

 

「今まで32年の間、権力を握ってきた邪悪な支配集団の中から、2人を排除し3人を震撼させる」と。 

 

このような話は、信心深い人でしたら理解できる内容かもしれませんが、目に見えない世界について、全く信じることができない唯物論のかたにとっては、理解し難いでしょう。 

 

信じる信じないは、あなた次第。 

 

そのような方には、陰謀論として聞き流していただければ、良いと思います。 

 

「 私が選んだこの男について。 

こんな時代のためのトランプ。 

それは、ベンジャミン・ネタニヤフが、イスラエルにとってそうであるように。 

この男は、アメリカにとっても、そうである」 

(2011年4月28日、 Lord God) 

 

 https://bit.ly/2JifLm4


【海軍省 練習兵用 歴史教科書】21. キリスト教と鉄砲の伝来
公開日時: 2020-11-23 17:50:36


(2)西力(せいりき)の東漸(とうぜん)と世界の情勢 

欧人の渡来とその影響 

ヨーロッパ人の我が国への渡来は戦国時代の後半にはじまる。 

我が國民はこの時初めてヨーロッパ人に接し、それらによって齎(もたら)された。 

文物・宗教に触れて世界に対する視野を広めたが、延(ひ)いてはまたこれによって国家意識が呼び起こされ、海内統一の気運が促された。 

東西交通の動機 

東西両洋の交通は、さきに元が亜欧に跨(またが)る大国を建設したことによって、俄に活況を呈し始めたが、我が鎌倉末期にトルコが興って、東西交通の要地たるコンスタンチノーブルを占領したため、これまでの東西交通は遮断せらるることとなった。 

西欧において直接東亜との海路通商を開く必要が、切実に感ぜられ始めたのはこの時からである。 

 

新航路の開拓 

これよりさき元(げん)の忽必烈汗(フビライハン)に仕へたイタリヤ人マルコ=ポーロは帰国の後、「東方見聞録(とうほうけんぶんろく)」を著したが、その中で我が国をジパングの名の下に、金銀珠玉に富む國として紹介したため、ヨーロッパ人の間に俄然日本渡航の憧憬(どうけい)が高まり、遂に我が第103代後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の明應(めいおう)元年(皇紀2152年)、イタリア人コロンブスが日本への渡航開拓の途中、偶然アメリカ大陸を発見した。 

次いで明應7年(皇紀2158)、ポルトガル人バスコ=ダ=ガマはアフリカの南端を廻り、初めて印度に到達した。 

 

葡西(ポルトガルとスペイン)両国の東亜進出 

爾来ポルトガルは主として東南アジア方面の経営に力を注ぎ、第104代 後柏原(ごかしわはら)天皇の永正(えいしょう)7年(皇紀2170)にはインドのゴアを攻略して印度侵略の根拠地とし、更にセイロン島を奪ひ、翌8年(皇紀2171)にはマライ半島の要地マラッカを略取し、進んでモロッカ諸島を領有した。 

 

かくてポルトガルは南洋諸島に於ける香料貿易を独占することとなったが、ますます東進を続けて商船を盛に支那に遣はし、第105代後奈良天皇(ごならてんのう)の弘治(こうち)3年(皇紀2217)明から澳門(まかお)を得るに及び、ここを根拠として盛んに印度・支那と貿易を行ひ始めた。 

これに対しイスパニヤはコロンブスのアメリカ大陸発見以来、主として力をアメリカ大陸に注ぎ、永正16年(皇紀2179)、メキシコを征服してこれをノバ=イスパニヤ(濃毘數船 のびすはん)と命名し、またインカ帝国を滅ぼしてペルー地方の経営に當り、更に東亜に於いては先にポルトガル人マゼランが世界一周の途中発見したフィリピン諸島を占領して、第106代正親町天皇(おおぎまちてんのう)の元亀(げんき)2年(皇紀2231)、マニラをその首都と定め、東亜侵略の根拠地とすることとなった。 

 

太平洋問題の発端 

かくてイスパニア・ポルトガル両国は他のヨーロッパ諸国に魁(さきが)け、軍艦・商船を連ねて我が戦国時代の東亜を蝕(むしば)み、豊富を誇る東亜の資源は空しくその手に委ねられた。 

この間、東亜諸国の中で独り目覚めていたのは我が國だけであったが、我が邊海の士民の勇猛果敢な南方進出も、これと競ふには背後の力を缺(か)き、後に我が国の生存に関する重大問題として、長く我が國民の上に重い桎梏(しっこく)となって残された太平洋問題と東亜、殊に支那問題とは、この時代に先づ最初の種子が蒔かれ始めたのである。 

欧人の来航と鐵砲(てっぽう)の傳来(でんらい) 

ヨーロッパ人が我が国に来朝したのは、後奈良天皇の天文(てんもん)12年(皇紀2203)、たまたま一艘(いっそう)のポルトガル商船が大隅(おおすみ)の種子島に漂着したのが最初である。 

この時また我が国に初めて鉄砲が傳(つた)へられた。 

これからポルトガル商船は盛に我が国に来航して、九州地方の諸大名と貿易を行ひ、イスパニヤも天正(てんしょう)年間には我が国に来航して貿易を開始した。 

當時わが国民はその商人・商船を南蛮人・南蛮船と称し、新来の西欧文物に対してはよくこれを活用することに努め、殊に鉄砲の傳来に当たっては直ちに製法を学び、その製作に努めてここに火器使用の端緒が開かれた。 

この鉄砲の伝来が、我が国の兵備及び戦術の上に与えた影響は頗(すこぶ)る大なるものがあった。 

天主教の傳播(でんぱ)と海外渡航 

かくてヨーロッパ人の渡来によってわが国民の海外認識は深められ海外発展の気運はますます促されることとなったが、ヨーロッパ人の渡来後直ちに我が国に傳えられたキリスト教は、続々来朝した宣教師の熱心な傳導によって、急速に全国に広まった。 

當時この教は天主教(てんしゅきょう)、或は切支丹宗(きりしたんしう)と称せられ、天正(てんしょう)年間には全国の信徒は凡そ十五萬を算へるようにさへなった。 

而して熱心な信者となった大友・大村・有馬の九州三大名が、天正10年(皇紀2242)、遠くローマに派遣した伊藤満所(まんしょ)以下の少年使節は、萬里の波濤を越えて異境に堂々とその使命を果し、大いに我が國民の海外発展を鼓舞したが、これらが帰朝の際に齎(もたら)した地圖・地球儀・時計などの文物はまた国民の海外認識を大いに深めた。 

 
https://bit.ly/39bCmM3


【海軍省 練習兵用 歴史教科書】20. 八幡船(ばはんせん)と倭寇、勘合貿易
公開日時: 2020-11-23 06:51:50


6.海外発展と世界の情勢 

(1)海外発展の気運 

海外発展の気運 

我が國古来の傳統たる国民の海外発展は平安中期になって一時大いに衰へたが、武士の勃興に伴って再び活況を呈しはじめ、源平二氏及び鎌倉幕府の奨励により日宋貿易が盛に行はれるやうになった。 

この時、特に西国の武士は主として海洋を舞台に活躍し、かの元寇に際してはその撃攘(げきじょう)に大いに貢献した。 

而してこの元寇の撃攘がわが国民の海外発展の気運をますます高めたことは著しいものがあった。 

八幡船(ばはんせん)の活躍 

即ち建武中興の後、天下が再び乱れて吉野時代となり、更に室町時代となるに随って、航海に馴れた九州・四国・瀬戸内海沿岸の士民はこの好機に乗じて軽舟を操り、船には八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の旗をかかげ、よく千里の波濤(はたう)を凌(しの)いで朝鮮・支那の沿岸に潑刺(はつらつ)たる貿易を開始した。 

しかも国家の保護のないこれらの商人は、自衛のためには武力を行使することを余儀なくせられ、各地に威名を轟(とどろ)かしたので、支那・朝鮮に於いてはこれを倭寇と呼び、その船を八幡船(ばはんせん)と称して大いに恐れた。 

當時すでに衰亡に瀕していた高麗は、このため遂に滅亡したとまでいはれている。 

 

支那に於いては、元の滅後、これに代わって明が興ったが、明は国内を統一した勢に乗じて使を我が国に遣わし、當時九州に在(おは)しました征西将軍(せいせいしょうぐん)宮懐良(みやかねなが)親王に、我が邊海の士民の海外活躍を禁止せられることを請ふてきた。 

親王はその国書が無礼極まるものであったのをせめて直ちにこれを却(しりぞ)けられ、毅然(きぜん)たる御態度を以て大いに我が国威を海外にお示しになった。 

室町幕府の勘合貿易 

然るに大義に暗い足利氏は、この明に極めて屈辱的な態度を取った。 

即ち義満は明の態度が我が国に対して甚だ不遜であったにもかかわらず、自らの利益のためには国家の面目(めんぼく)をも顧みず、その要求を容れて我が士民の海外発展を禁止すると思に、自ら對明貿易を開始した。 

而してその貿易は、幕府の公船の証として明(みん)から交付せられた勘合附(かんごうふ)を携帯する勘合船(かんごうせん)だけに貿易を許す、いわゆる勘合貿易であったため、我が商人の奔放な海外発展は一時大いに衰えた。 

南方発展の先駆 

しかし室町幕府の勢力が衰えた応仁の乱後は、我が士民の活躍は再び盛となった。 

我が商戦の活動範囲は年とともに拡大せられ、南支沿岸から南方各地に及び、ヨーロッパ人渡来に先立って、南方における我が國民雄飛の先駆となった。 

爾来秀吉の東亜政策によって、對明(たいみん)貿易が委縮した後も、南方貿易だけはますます盛大となり、やがて新来のヨーロッパ人と相伍して、世界貿易線上に大いに活躍することとなったのである。 

 

国威の御宣揚 

陛下與戦の策あらば、小邦亦禦敵(ぎょてき)の圖(と)あり。 

又聞く、陛下股肱(ここう)の将を選び、竭力(けつりょく)の兵を起こして、来り臣が境を侵すと。 

水澤(すいたく)の地、山海の洲、自ら其の備あり。豈に肯(あへ)て途に跪(ひざまず)いて之を奉ぜんや。 

之(これ)に順(したが)うも未だ必ずしもそれ生きず、之に逆(さから)ふも未だ必ずしもそれ死せんや。 

(「明史日本傳」懐良親王遺明御書) 

 
https://bit.ly/2J0G6Wc


【海軍省 練習兵用 歴史教科書】19. 尊皇精神と応仁の乱
公開日時: 2020-11-22 06:40:12


(3)時代の推移と尊皇精神の発現 

幕府の失権と戦国の世相 

建武中興(けんむちゅうこう)の大業に叛(そむ)き奉った足利尊氏は、その野心を遂げるためしきりに私恩を施して武士を手なづけ、やがて義満に至り、京都室町に幕府を開いて武家政治を再興した。しかし大義名分を紊(みだ)した足利氏に、長く幕府を保ちえる實力(じつりょく)があるはずはなく、地方の諸将はこれに乗じて次第に勢力を貯へ、四代将軍義教(よしのり)の頃からは幕府の命令を意としないものさへ生じ、やがて應仁(おうにん)の乱後は幕府の勢力も全く衰へ、群雄は四方に起こって攻略をこととし、兵乱が相次いで起こって、ここに百餘年に亙るいはゆる戰國の世相が現出した。 

 

皇室の御式微 

この間、皇室の御料地(ごりょうち)は、打続く戦乱のために多く有名無實となり、幕府もこれに對し奉って御費用を献上する資力がなく、内裏(だいり)の御築地(おんついぢ)は破れ、日々の供御(くご)にもことかかせられ、申すも畏れ多いことではあるが、御即位の御大禮、御大葬の御儀式さへ長年に亙って滞(とどこほ)らせ給ふという御有様であった。 

 

仁慈(じんじ)の御聖徳 

しかしこのやうな皇室の御式微にもかかはらず、我が國體の尊厳は毫も損ぜられることなく、御歴代の天皇は常に仁慈愛民の大御心を蒼生の上に垂れさせ給ひ、いつの世にもかはらせ給はぬ御聖徳の数々は、拝するだに感激措(お)く能はざるところである。 

 

 

國民の忠誠 

されば御歴代の御仁慈(ごじんじ)を拝し、国民の間に自ずから(おの)ずから深い勤皇思想が起こされたことは、我が国民精神本然(ほんねん)の発露であった。 

諸国の豪族の中には聖恩に感激して尊皇の至誠を致すものが相次いで現れた。 

即ち大内義隆(おおうちよしたか)・毛利元就(もうりもとなり)・織田信秀(おだのぶひで)・今川義元(いまがわよしもと)等はしばしば御即位・御大葬、或いは皇大神宮や皇居御修理の御費用を献じ奉った。 

また公卿の中には地方を回って諸豪族に勤皇を説くものが現れ、町人の中にさへ、皇居を修理し奉り供御(くご)を奉って、忠誠を盡くすものが現れた。 

 

尊皇精神と海内一統 

かくて皇室の御仁慈(ごじんじ)は深く国民の間に照り徹(とほ)り、戦乱をこととする諸豪族の間には、天皇を奉じて天下を統一し、宸襟(しんきん)を安んじ奉らうと志すものが現われはじめ、遂に勤皇敬神の志の極めて熱い織田信長及び豊臣秀吉の手によって、はじめて海内一統(かいないいっとう)の事業が実現せられたことは、誠に我が國體の然らしめるところであり、このやうな戰國の世相に於いてすら尊皇精神の発現を見たことは、正に我が國體の世界に冠絶(かんぜつ)する所以(ゆえん)である。 

 

御歴代の御仁慈 

治めしる我が世いかにと浪風の八十島(やそしま)かけてゆく心かな(後柏原天皇 ごかしわばらてんのう) 

愚なる身は忘れても 大方の世の憂きをさへ また嘆くかな(後土御門天皇 ごつちみかどてんのう) 

朕民の父母として徳覆ふ能はず 甚だ自ら痛む (後奈良天皇宸筆寫經(写経)奥書) 

 

 https://youtu.be/lfQvTta7y9U

 


パウエル弁護士 ドミニオンを使った不正選挙の実態を暴露 11月19日ワシントンDCにて
公開日時: 2020-11-21 07:23:11


ドミニオンの投票システム、スマートマチック技術のソフトウェアと、他のコンピュータ化された投票システムにも使われているソフトウェアがここにあります。 

 
 

 ただの支配権ではなく、彼が選挙で負けないようにするために、ウゴ・チャベスの指示でベネズエラに作られました。 

 
 

その仕組みを説明してくれた、非常に強力な証人が一人います。 

 
彼の宣誓供述書はリンウッドの嘆願書に添付されており、訴訟はジョージア州で行われることになっています。 

 
 

  

 彼はウゴ・チャベスと一緒にいたので、驚くほど詳細な宣誓供述書になっています。 

 
 

  

彼はそれがどのように機能するかを説明されていたときに、彼はそれが動作するのを見たときに、あなたたちチャベスと一緒にいました。 

 
 

 選挙の夜に複数の州が投票を停止しているのを見てすぐに、ここでも同じことが起こっていることを知ったのです。 

 
 

このソフト自体は、インターネットに接続したり、サムドライブを入れたり、何でもいいからバックドアを作って、たくさんの変数を使って作られていますが、最も特徴的な機能の一つは、投票を反転させる機能です。 

 
 

 それは、アルゴリズムを設定して実行することができます。 

 
 

 おそらくトランプから一定割合の票を奪ってバイデンにひっくり返すために国中を駆け巡ったのでしょう。 

 
 
 
 
 
 

 これらの州の多くで、トランプ大統領への投票が圧倒的でなければ、決して明らかにならなかったかもしれません。 

 
 

それが、システムに差し込まれたアルゴリズムを壊してしまいました。 それが原因で、多くの州でシャットダウンせざるを得なくなったのです。 

 
 
 
 

 彼らが裏口から入ってきた時に 投票用紙を持ってきた。 その多くはどこかで 捏造したものだった。 原始的な紙にバイデン氏の名前にサークルが完全に一致していた。 

 
 
 
 

他の人たちは常に一定の数のバッチに押し込まれ 同じバッチを再実行していました。 

 
 

 これは、特定の時期に投票数が驚くほど急増していることを示す統計的証拠に対応しています。 

 
 

これは、その時に裏口でバランスを見たと言っている、多数の人の目撃者の証言と一致しています 

 
 

  特にドミニオンの幹部はどこにもいない今、彼らはトロントの彼らのオフィスで別の場所に一晩彼らのオフィスを移動していますが、ソロスの建物の一つと共有されていました。 

 
 

 ドミニオンプロジェクト全体のリーダーの一人は、マルロッホ・ブラウン卿です。 

 
 

  

 ソロス氏は、イギリスでナンバー2の人物であり、彼の組織の一部である。 

 
 
 

  ドミニオンの指導者とクリントン財団、そしてこの国で知られている他の政治家とのつながりがあります。 

 
 

  

 これがどのように機能したのかを簡単に説明するために 書かれていた手紙から引用していきます。 それを読んで引用元を確認していきます 

 
 

  

 この人物は、外資系企業であるスマートマティっく社が、セコイア社の投票システムを米国で買収したことに異議を唱えていた。 

 
 

 私は、この取引は、まさにシンシアが国の安全保障のために検討するのに最適な立場にある外国人の所有権の問題を提起していると思います。 

 

 スマートマチックは外資系であり、セコイア社を買収したことは議論の余地がありませんが、彼らは何度も名前を変えています。 

 
しかし、それはアメリカでビジネスをしている投票機の会社でした。 

 
  セコイア社の投票機は、2004年のアメリカ大統領選挙で1億2500万票以上を記録した。 
 

 Smartmatic社は、ベネズエラの実業家であるアントニオ・ムジカが支配権を持っているが、同社はすべての所有者を明らかにしていない。 
 

 プレスによると、マーク・マドックスの所有者は、オフショアの個人事業体のウェブを通して隠されており、それは実際には真実です。 

 

 スマートマティっく社は、公然と米国に敵対しているウゴ・チャベスによるベネズエラ政府に関連付けられており、もちろん我々はすべて知っているように、共産主義的で、本当に自分自身の人々を残虐にするシステムは、マドゥーロ氏によって彼の選挙を確保し、そこに継続されています。 

 
スマートマティック社は、セコイア社の買収に関連して、ベネズエラ政府との関係が国家安全保障上の懸念材料となる可能性があることを指摘しています。 

 
なぜなら、電子投票機は改ざんの影響を受けやすく、インサイダーはそのような改ざんに関与する立場にあるからです。 

 
 

 この手紙は、シカゴ第25回2006年小選挙区の懸念を表明し、それは製品やサービスの起源と決定するためにスマートマティクスの所有権を評価すると言って終了します。 

 
 

 誰がこれらに影響力を持ち、支配することができるか、製品やサービスの他の物語は、米国の国家安全保障にとって重要です。 

 
 

 この手紙は2006年10月6日、キャロリン・B・マロニー下院議員がハンク・ポールソンに宛てて書いたものです。 

 
 

 コブチャール上院議員とウォーレン上院議員は、最近では2019年12月にもこのような懸念を表明しています。 

 
 

 なぜ政府は真剣にそれらを考慮しないのか...それは私の理解を超えています。私が持っていない限り、3文字の機関のいくつかは、世界の他の部分でそれら自身を使用しています。アルゼンチンの選挙に影響を与えるために技術が輸出されたことを知っています。 

 
 

ヒューゴ・チャベスとスマートマチックへの関心についての宣誓供述書を書いた友人が認めています。 

 
 

 

 再びではなく、2006年キャロリン-マロニーは、高名なジョンは、問題について財務長官を知っている書いた。 

 
 

 スマートマティクスのリーダーシップといえば、スマートマティクスの特許保有者の一人、エリック・カーメロウ氏の名前がウェブ上でアンティファのメンバーとの会話の中で録音されていると思います。 

 
 

 彼のソーシャルメディアは大統領への憎しみで 満たされています。 そしてアメリカ合衆国全体への 憎しみで満たされています。 他の多くのスマートマティックな人々の ソーシャルメディアのアカウントと同様にです。 

 
 

  

  このドミニオン自体は、30州の2,000の管轄区域で広く利用されています。 

 
 

  それはテキサスを含むそれが持っていたすべての問題に気づいた複数の州で認定されています。 

 
専門家は、3人の教授のプリンストンのグループの社長から我々がそれについて話した専門家まで、ボードを横切ってそれを説明しています。 

 
 

 私たちの脆弱性を使用して、人々は認めて入ることができます。 

 
 

彼らが望むものを変更する 彼らはあるものから別のものへの投票の比率を設定することができます。 

 
 

  彼らはバイデンの票は1.25とカウントされ、トランプの票は0.75とカウントされると言うことができ、これらは実際にここで使用された数字かもしれません。 

 
影響を受けたのは、スイングステートだけではありません。 

 
 

このアルゴリズムは、今年発見したばかりと言ったように、選挙全体に影響を与えるために、全国で実行されている可能性が高いです。 

 
 

  

スイングステートのトランプ大統領への投票数が圧倒的に多く、投票数を増やすための埋め戻しのために機械を停止させなければならないコストがかかっているため、票数の異なる票がシステムに注入されている証拠があります。 

 
 
 
 
 

 分析した少なくとも2つの州で同じ6桁の数字が複数回使われています。 

 
 

  

 
同じ数字が20分間隔で機械に注入されていることについての論理的な説明はありません。 

 
 

ソフトウェアマニュアル自体は、インターネットからダウンロードすることができますし、私はそれが具体的にシステムの機能としてこれらのもののいくつかを宣伝しているので、すべてのあなたがそれを読むことをお勧めします。 

 
なぜこの国で使用が許可されたのか、私の理解を超えており、なぜ誰もそれに対処しないのか、それは絶対にひどいことです。 

 
投票マシンは、ハッカー達が簡単にアクセスできるようになっていました。 

ネット上には、携帯電話を持っている子供がこれらの投票機を、ハッキングする方法を説明するビデオがあります。 

 
 
 
 

 ドミニオンや各郡のソフトウェア労働者は、ドミニオンによって訓練されていますが、その監督は行われていません。 

 
 
 

 しかし、監視していた証拠はありません。そうでなければ、トランプの票を処分して、バイデンの票を追加する方法を訓練されたと証言している様々な労働者の証言があります。 

 
 
ソフトウェアは、あなたの選択の候補者のバッチの任意の数をドラッグアンドドロップするか、単にそれらを捨てることができる機能を持っています。 

 
 

だから我々は、トランプ票の大量の州の数をゴミ箱に入れて、コンピュータ上でバイデン票が注入されているようにした、多くの証拠を持っています。 

 
 
 


【海軍省 練習兵用 歴史教科書】18. 七生報国と憂国勤皇
公開日時: 2020-11-20 06:19:41


(2)忠臣の遺烈 

建武中興の挫折 

かくて新政はその緒につくこととなったが、ともに並んで國政を翼賛し奉るべき公卿と武士の間がとかく圓満(えんまん)を缺(か)いたことは、世情に暗い公卿の多かったこととともに甚だしく政務を渋滞せしめた。 

そのうえ、國民の中には恩賞に対して不平を唱へるものが極めて多く、就中(なかんずく)久しく武家政治になれた地方武士の中には、幕府の再興を願ふものさへ生じた。 

要するに國民の中には、いまだ我が國体を解せず、大義に暗いものが多く、これを巧みに利用した尊氏(たかうじ)の謀反によって、遂に中興の大業は惜しくも挫折することを余儀なくさせられたのである。 

 

尊氏の謀反と正成(まさしげ)の戦死 

即ち足利尊氏は源氏の一族であったためにかねて幕府再興の野心を抱いていたが、まだ新政の基礎が確立しない時機に乗じ、私恩を施して巧みに不平武士をてなづけ、早くも建武二年(皇紀1995年)、鎌倉に於いて叛旗(はんき)を飜(ひるがえ)した。 

天皇は勤王の諸将に命じて直ちにこれを討たしめられ、陸奥から義良(のりなが)親王を奉じて西上した北畠顯家(きたはたけあきいえ)の奮戦によって、一度は尊氏(たかうじ)を大いに破りこれを九州に走らしめたが、やがて九州に於いて勢力を恢復した尊氏は直義とともに大軍を率ゐ、海陸相並んで東上して来た。 

正成(まさしげ)は義貞とともにこれを兵庫に防いだが、戦利あらず、義貞は敗れて京都に退き、正成(まさしげ)は力戦奮闘の後、七生報國を期して弟正季(まさすえ)とともに湊川(みなとがわ)に自刃(じじん)した。 

時に延元(えんげん)元年(皇紀1996)5月25日のことであった。 

 

吉野御還幸 

ここに於て尊氏は京都に攻め入り、その後、長年(ながとし/名和長年)も戦死して官軍の勢は漸く振はず、天皇は畏(かしこ)くも遂に吉野に還幸あらせられることとなった。 

かくて朝廷は後醍醐天皇から第97代後村山(こむらかみ)天皇・第98代長慶(ちょうけい)天皇、第99代後龜山(ごかめやま)天皇御四代の間は多く吉野に在(おは)しまして、天皇御親政を期して足利氏討伐を図り給ひ、ここに崇高な我が國體發揚(こくたいはつよう)の輝かしい御事蹟と御苦難に満ちた吉野時代五十余餘年の歴史が、我が國史の上に燦(さん)として輝くこととなったのである。 

 

忠臣の遺烈 

この間、後醍醐天皇の緒皇子はよく中興の聖旨を體(たい)し給ひ、貴い御身を以て義戦に挺身遊ばされた。 

また幾多の勤王の諸将は中興の大業のためによくその忠誠を捧げ奉り、しかもその多くは子孫相傳へてその遺志を継ぎ、いかなる苦境に陥るとも毫(ごう)も節義を變(へん)ぜず、皇事に殉(じゅん)じた。 

この時、北畠親房(きたはたけちかふさ)が常陸(ひたち)にあって陣中に執筆した神皇正統記(じんのうしょうとうき)は、國體の本義を説いて憂國の文字に満ちた、正に勤皇精神の結晶であった。 

而(しか)して これらの勤皇諸将(きんのうしょしょう)の忠勇義烈の精神と事蹟は、後人をして奮起せしめねばやまない感銘を残し、就中江戸幕末に至っては勤皇の志士を鼓舞して、明治維新の大業を促進し奉る有力な因由(いんゆう)となった。 

 

御龜山(ごかめやま)天皇の京都還幸 

足利氏は尊氏の死後義詮(よしあきら)を経て義満(よしみつ)の代となったが、元中9年(皇紀2052)、義満は後亀山天皇に京都還幸のことを請い奉った。 

天皇は多年に亙(わた)る戦乱のための國民の苦しみを憐(あはれ)み給ひ、その奏請(そうせい)を許して京都に還幸あらせられ、神器(じんき)を第百代 後小松(ここまつ)天皇に傳え給うた。 

かくて多年の戦乱は静まったが、遂に幕府政治の再興を見ることとなった。 

 

七生報国(しちしょうほうこく)の盡忠 

正成(まさして) 座上に居つつ舎弟の正季(まさすえ)に向ひて、抑最後の一念に依りて、善悪の生を引くといへり、九界(きゅうかい)の間に何か御邊(ごへん)の願なると問ひければ、正季(まさすえ)からからと打笑ひて、七生まで只同じ人間に生まれて、朝敵を滅さばやとこそ存じ候へと申しければ、正成よに嬉しげなる気色にて、罪業(ざいごう)深き悪念なれども、我も箇様に思ふなり、いざさらば同じく生を替へて此の本懐を達せんと契(ちぎ)りて、兄弟ともに刺し違へて、同じ枕に臥しにけり。(「太平記」) 

 

憂国勤皇の文字 

天地も昔にかはらず、日月も光を改めず。況(いわん)や三種の神器世に現存し給へり。極(きま)り有るべからざるは我が國を傳ふる寶祚(ほうそ)也。仰ぎて貴び奉るべきは日嗣(ひつぎ)を受け給ふすべらぎになんおはします。 

凡そ王土にはらまれて、忠をいたし命を捨つるは人臣の道なり。必ずこれを高名と思ふべきにあらず。 (北畠親房「神皇正統記」きたはたけちかふさ「じんのうしょうとうき」 ) 

 
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【海軍省 練習兵用 歴史教科書】17. 後醍醐天皇と船上山の戦い
公開日時: 2020-11-19 13:00:24


5.建武中興と勤皇精神 

(1)中興(ちゅうこう)の聖業(せいぎょう) 

武家政治と皇政復古 

源頼朝の鎌倉幕府開設以来の武家政治は、平安末期の社会の混乱を武力をもって鎮め、國内に新たな秩序を齎(もたら)して民心を安定せしめるのに多大の功があった。 

しかし武家政治そのものは、我が國體の本義に鑑みて、あくまで許すことのできない政治組織である。 

されば朝廷におかせられては、しばしば皇政復古の御計画をお立てになったが機 未だ熟せず、殊に承久の変の如き後鳥羽・順徳の二上皇が、時の執権北条義時の手によりそれぞれ遠島に遷され給ふ御悲運を招いたことは、誠に畏(かしこ)き極みであった。 

 

北條氏の専横(せんおう) 

しかも變後北上氏はますます権勢を擅(ほしいまま)にして豪も改める色なく、殊に元寇の後、幕府の財政は著しく困難となったにもかかはらず、執権北條高時(たかとき)は遊楽をこととして政治を顧みなかったので、人心は次第に北條氏を離れて行った。 

 

討幕の御計畫(けいかく) 

時に第96代後醍醐天皇は、かねて皇政復古を実現して延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)の聖代に復し、肇国精神に基づいて政治の刷新を図ろうとの御志を懐(いただ)かせ給うていたが、北條氏の専横がいよいよ募るに及び、遂に北條氏討伐の御計畫をお立てになった。 

 

勤皇軍の興起 

高時は大いに驚き、元弘(げんこう)元年(皇紀1991)、大兵を京都に向かはせ、翌2年(皇紀1992)、畏れ多くも天皇を隠岐(おき)に遷し奉ったが、この時、既に楠木正成は詔(みことのり)を奉じて兵を河内に挙げ、金剛山の千早城(ちはやじょう)に寡兵(かへい)よく賊の大軍を苦しめて大義を天下に唱え、護良(もりなが)親王もまた吉野に據(よ)って諸国に義兵を募られたから、肥後の菊池武時をはじめ勤皇の諸侯が各地に続々と義軍を起こした。 

ここにおいて元弘3年(皇紀1993)、天皇は名和長年(なわながとし)に迎へられ給うて、隠岐(おき)から伯耆(ほうき)船上山(せんじょうさん)に行幸あらせられた。 

 

北條氏の滅亡 

北條高時は驚いて足利高氏(あしかがたかうじ)を遣わし、船上山(せんじょうざん)を攻めさせたが、高氏(たかうじ)は俄(にわか)に官軍に降(ふ)って京都を攻めこれを回復した。 

この時、新田義貞(にったよしさだ)もまた義兵を起こし、進んで鎌倉に攻め入ったため、高時は一族とともに自害し、北條氏はここに滅んだ。 

ここに於いて後醍醐天皇は京都に還幸あらせられ、直ちに新政の樹立に着手し給うたのである。 

 

建武中興の大業 

即ち天皇は先ず摂関政治(せっかんせいじ)を廃して我が國體(こくたい)本来の姿たる天皇親政の實を擧(あ)げ給ひ、中央の政治機関を整備してこれに公卿(くぎょう)・武士の人材を當(あ)て、別に護良(もりよし)親王を征夷大将軍に任じて軍事を統べし給うた。 

また地方には尊氏(たかうじ)・義貞・正成・長年(ながとし)以下の有功の公卿・武士を守護・國司(こくし)に任じて行政に當らせ、特に北畠顕家(きたはたけあきいえ)には皇子義良親王(のりながしんのう)を奉じて陸奥を治めさせ、足利直義(あしかがただよし)に皇子成良親王(なりながしんのう)を奉じて関東を治めしめ給うた。 

かくて従来の政治上の幾多の弊害が除かれ、萬機親裁の統一政治に復帰して、肇国精神(ちょうこくせいしん)に基づく国政改革の實(じつ)が挙(あが)るに及び、年号を改めて建武(けんむ)と称せられた。さればこの大業を建武中興と申し上げる。 

 

中興の御親政 

ご在位の間、内には三綱五當の儀を正しくして、外には萬機百司の政怠り給はず、延喜天暦(えんぎてんりゃく)の跡を追はれしかば、四海風を望みて悦び、萬民徳に帰して楽しむ。(中略)誠に天に受けたる聖主、地に奉ぜる名君なりと、その徳を称し、その化に誇らぬ者は無かりけり。(「太平記」) 

古興廃を改めて、今の例は昔の新儀なり。朕が新儀は未来の先例たるべしとして、新たなる勅裁漸々(ようよう)聞こえけり。(「梅松論(ばいしょうろん)」) 

 
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なぜFACEBOOKは、大統領選挙に介入しようとするのか?
公開日時: 2020-11-19 05:38:22


マック作家ハンバーグ氏は、虎ンプ大統領のFB公式ページの肩書きを、「大統領」から「政治候補者」と修正していました。 

 
 

虎ンプ大統領は、今回の選挙結果がどうであれ、少なくとも来年1月20日の大統領就任式までは、大統領であります。 

 
 

また、虎ンプ大統領の選挙に関する投稿記事には全て、 

郵便投票および投票所での投票は、どちらも米国の歴史を通じて高い信頼性が確認されています。いずれの投票方法でも、不正投票は極めてまれにしか起こりません。」とか 

 
 

「米国には、選挙の完全性を確保するために法律、手続き、団体があります」 

 
 

という注意書きが表示されるようになっています。 

 
 

 
 

なぜ、マック作家ハンバーグ氏は虎ンプ陣営に対して、敵対行動をとるのでしょうか? 

 
 

その理由の一つには、彼の奥さんがC国系アメリカ人というのもあるでしょう。 

 
 

また、彼が推進している暗号通貨リブラの発行を、実現させたいとい思いがあるのでしょう。 

 
 

昨年6月に発足したリブラ協会ですが、10月に行われた公聴会にて政府から批判が多く、その計画が頓挫していました。 

 
 

2020年5月、リブラ協会は、ブッシュ政権とオバマ政権の時に、財務省内でテロおよび金融情報担当次官をしていた、スチュアート・リービー氏を、初代CEOにすると発表しました。 

 
 

なぜ、米国政府がFB主導の暗号通貨の発行に批判的なのでしょうか? 

 
 

FB利用者は世界中で20億人を超えています。 

 
 

その利用者が、FBメッセンジャーなどを介して暗号通貨を利用するようになると、FBが一つの国家権力を持つことになりかねません。 

 
 

すでに、FBは膨大なビッグデータを保有しています。それが主な収入源なのですが、それに加えて、約20億人の暗号通貨の取引履歴が手に入るようになるのです。 

 
 

超監視社会を構築しているC国では、このビッグデータが欲しいのです。 

 
 

すでに、デジタル通貨の試験運用をしており、数年以内で自国内の経済流通のほとんどを、デジタル化する計画のようです。 

 
 

そうなると、中共政府の思うままに、人民を管理することができるようになります。 

 
 

ちなみに、最近、RCEP協定に加盟した日本も、近い将来、このデジタル人民元の経済圏に取り込まれるかもしれません。 

 
 

ドル経済圏がいいのか、人民元経済圏がいいのか、それぞれの国が選択を迫られるでしょう。 

 
 

このように、デジタル通貨の発行権を持つということは、巨大な権力を握ることができるのです。 

 
 

今までは、国単位の中央銀行が、それぞれの通貨発行権を持っていたのですが、それを民間企業が国をまたいで行おうとしているのです。 

 
 

厳密には各国の中央銀行も民間企業になりますが、国単位であり、政府がその代表の任命権があったりと、政府との関わりが強いです。 

 
 

しかし、FBが主導するリブラ協会が発行する暗号通貨は、国家単位ではありません。 

 
 

でも、すでにビットコインが流通しているではないか、と疑問に思う人もいるかもしれません。 

 
 

確かに、暗号通貨の代名詞として広く認知されているビットコインですが、その発行主体はありません。 

 
 

民間企業でもなければ、どこかの政府でもありません。 

 
 

ブロックチェーンという技術によって、その管理運営がされているので、どこの誰かが管理しているというわけではないのです。 

 
 

マック作家ハンバーグは、20億人のユーザーを持つ暗号通貨の発行主体となることで、国家権力と同様の権力を持てるようになるのです。 

 
 

それを懸念して、約3億人の人口を持つ米国政府は、リブラに批判的なのです。 

 
 

もちろん、表向きは、マネーロンダリングやテロ組織などの犯罪に使われる可能性がある、という理由で反対しています。 

 
 

マック作家ハンバーグ氏が、暗号通貨リブラを発行したいというのはわかったけど、ではなぜ、虎ンプ陣営に対して、あれほど徹底的な妨害工作をするのでしょうか? 

 
 

ここからは推測ですが、おそらく、反虎ンプ陣営との密約があるのではないかと思われます。 

 
 

我々に協力すれば暗号通貨の発行を認める、と。 

 
 

また、彼は、おバナナや平李と同様に、悪魔崇拝者であるという噂もありますので、伝統的な神を信仰する、保守的国家を取り戻そうとしている、虎ンプ陣営を受け入れることはできないのでしょう。 

 
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【海軍省 練習兵用 歴史教科書】16. 元寇の撃攘
公開日時: 2020-11-18 16:51:30


 

(4)元寇(げんこう)の撃攘(げきじょう) 

蒙古の興起 

當時大陸に於ては 新羅の滅後、半島に高麗が興り、支那に於ては唐の亡びた後、宋(そう)が興って国内を統一したが、北方から金に圧迫されて南遷し、両者対立の状態にある時、北方に更に蒙古の勃興を見た。 

即ち鎌倉時代の初期、黒龍江の上流に遊牧の生活を送る蒙古民族の中から成吉思汗(ジンギスカン)が現れ、内外蒙古を統一して蒙古帝国を建てた。 

その後、蒙古は頻(しき)りに四方を攻略し、金を滅ぼして満州・北支を併せ、次いで東は高麗を服従せしめ、西は西蔵(チベット)、次いで中亜の諸国を征服し、更に遠くヨーロッパに侵入してロシヤを征服し、ハンガリー・ポーランド等を蹂躙して空前の大国を形成した。 

 

蒙古の来牒 

かくて蒙古は忽必烈汗(フビライハン)に至ってますます強く、遂に不遜にも我が国をも臣従せしめようとし、第九十代亀山天皇の文永5年(皇紀1928)、國書を我が国に送って服従を勧めた。 

時の執権北条時宗(ほうじょうときむね)は断固としてこれを斥け、西国(さいこく)の諸将に命じて防備を堅くさせ、国民もまた上下一致して戦備を整へた。 

 

文永の役 

やがて蒙古は國號(こくごう)を元と称したが、第九十一代、後宇田(ごうた)天皇の文永11年(皇紀1934)、元軍四萬は艦船九百余艘に分乗して来寇し、先ず對馬・壱岐を侵し、進んで博多に迫った。 

敵が巧妙な集團戦法を用ひ火器を使用したため、形勢は一時我に不利となったが、わが軍はよく奮戦してこれを防いだ。 

時にたまたま神風が大いに起こって敵艦は多く破れ、残兵は辛うじて逃れ去った。これを文永の役といふ。 

 

弘安の役 

その後、元は使を遣はして我を脅かしたが、時宗はこれを鎌倉に斬って断固たる決意を内外に示すとともに、博多湾沿岸、その他に石壘(せきるい)を築かせてますます守備を厳(げん)にし、更に進んで蒙古征伐の計画さへ樹て、国民の戦意は大いに揚がった。 

果せるかな弘安4年(皇紀1941)、元軍は再び大挙して来寇した。 

五月、東路軍(とうろぐん)四万は先ず壱岐・対馬を侵し、進んで博多に迫ったが、我が軍は石壘(せきるい)に據(よ)って防戦し、またしばしば敵艦を急襲して敵将を殪(たお)し、大いに敵の心膽(しんたん)を寒からしめた。 

次いで七月、江南軍(こうなんぐん)十万は海を蔽(おお)うて鷹島(たかしま)に来襲し、まさに東路軍(とうろぐん)と合して我に迫ろうとしたとき、神風が再び起こって敵艦は多く覆没(ふくぼつ)し、我が軍はこれに乗じて大いに敵を破った。これを弘安の役といふ。 

 

戦勝の因由 

元寇は未曾有の国難であったが、畏(かしこ)くも龜山(かめやま)上皇は御身を以て国難に代わることを皇大神宮に祈り給ひ、執権 時宗は身を捨てて難局に善処し、将士の奮戦、社寺の熱祷(ねっとう)はもとより國民もまたことごとく奮起し、上下一致して元寇撃攘(げきじょう)のことに当たったため、神助は神風となって我が國を、お護(まも)りになり、さしもの大敵をも撃攘して国威を發揚することができたのである。 

 

神國思想の展開 

かくて元寇を機として國民の我が國體に對する自覺は大いに高まり、我が國の神國たる所以が国民の間にいよいよ固く信ぜられるやうになった。 

国難に際し我が國民が皇室を中心として挙国一致の實を挙げ得たのは、實はこの国家意識の昂揚によるものであった。 

されば神国思想によって深められたこの國體観念は、後に勤皇精神(きんのうせいしん)を育み、幕府の存在が我が国本来の姿でないことを国民に自覺せしめ、それがやがて建武中興を促進し奉ることとなったのである。 

海外発展の促進 

また元寇の撃攘による國民精神の昂揚は 国民の海外発展の気運を促し、戦後、西海(さいかい)の士民は盛(さかん)に貿易に従事して、大陸への進出を試み始めた。 

 

 

國體の自覺と神國思想 

凡(すべ)て天照皇大神天統を耀(かがや)かしたまひしより、日本今皇帝日嗣(ひつぎ)を受けたまふに至るまで、聖明の覃(およ)ぶところ、左廟右禝(さびょう うしょく)の霊、得一無二の盟に属せざるはなし。 

百王の鎮護孔(はなは)だ昭(あきら)かに、四夷の脩靖(しゅうせい)紊(みだ)るることなし。 

故に皇土を以て永く神國と號(ごう)す。 

知を以て競ふべきにあらず、力を持って争ふべきにあらず、以て一二し難し。乞ふ、思量せよ。 

(贈 蒙古國 牒案) 

すゑのよの 末の末まで わが國は よろづのくにに すぐれたる國 

(東巖慧安(とうがんえあん) [宏覺禪師(こうがくぜんじ)]) 

西の海 よせくるなみも こころせよ 神のまもれる やまと島根ぞ 

(中臣祐春(なかとみのすけおみ)) 

 
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【海軍省 練習兵用 歴史教科書】15. 武士道の発達
公開日時: 2020-11-17 14:58:15


(3)武士道の発達 

武士道の淵源 

武士の勃興によりその生活のうちに、自(おのづか)ら特色ある道徳の発達を見た。これを武士道という。 

しかしこの武士道もその淵源(えんげん)は遠く肇国(ちょうこく)の古(いにしえ)に遡(さかのぼ)るものである。 

即ち 我が国、上代の天皇を中心とし奉る氏族制度の時代に於ては、君国のためには一身を顧(かえり)みないという、大義が何よりも重んぜられて、国民は忠誠勇武の精神に富み、また一族の名誉を重んじ一身を捨てて顧みない犠牲的精神が、大義を重んずる忠君愛国の至誠に基づいて、極めて強固な国民精神をなしていた。 

海(うみ)行(ゆ)かば水漬(みづ)く屍(かばね)、山(やま)行(ゆ)かば草生(む)す屍(かばね)を、家門の名誉とする強い覚悟も、大君の醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つ雄々しい決意も、みな古来の伝統に基づくものに外ならなかった。 

 

東国武士の士風 

この上代の国民精神は、文弱な藤原氏が政権を専らにしてから一時衰えたが、遠隔の地方には、額(ひたい)には矢を立つとも背には立てじとする東人(あづまびと)の士風に見られるような、剛健勇武の精神が長く維持せらていた。 

蓋(けだ)し 東国は古来蝦夷に対する要害の地として、住民の間には常に尚武(しょうぶ)の気風が重んぜられ、遠く都を離れていたため 支那文化の影響を受けることが少なく、我が国固有の氏族制度的精神がよく保たれていたからである。 

 

武士道の奨励 

源頼朝は鎌倉に幕府を開くに當り、この質実剛健な東国武士の士風を幕府政治の基礎に置くとともに、ますます士風の振作(しんさく)に努めたので、ここに上代の国民精神は武士道として復活した。 

しかも この武士道の発達により、争乱と悪政に悩んだ社会に新たな秩序が齎(もたら)されたのである。 

 

武士道の精神 

(一)武士道に於ては 先ず主従(しゅじゅう)の間の道徳として 恩義の念が重んぜられた。即ち恩を蒙(こうむ)った主君のために、職場に於て死を鴻毛(こうもう)の軽きに比することは 武士最高の道徳であった。 

(二)武士の間に於ては 親子・一族の結合と道徳も、また厳格に保たれていた。 

特に子が親に孝養を盡すことは、特に重要な義務として重んぜられた。 

(三)このことは同時に 家門の名誉を重んずる精神であり、家系と家名を尊重することが、武士の間には特に発達した。 

武士が敵と戦うに當っては、先づ名乗りを挙げ祖先を明らかにし、その名誉にかけて奮戦した。 

(四)このように 武士の主従・親子の関係は 利害を超えていたから 犠牲的精神は特に発達し、一身を捨てて主君に忠誠を盡すことも、実にここに発していた。 

(五)また武士は相互の間にあっては信頼を旨とし、団結が強かった。また大いは節義を重んじ礼儀を尚び、日常生活に於ては質素・清廉を重んじ、以て堅忍持久の精神を養った。 

(六)武士は戦陣に臨んでは非常な勇気を必要としたから、神を敬い佛(ほとけ)を信じ、特に禅宗(ぜんしゅう)に帰依(きえ)して不動の信念と意志の鍛錬(たんれん)に意を用いた。 

その他武士は 風雅の道に嗜(たしなみ)あることも重んぜられた。 

 

武士道の発達とその精華 

かくて東国武士の士風は 頼朝の振作によって長く鎌倉武士の間に遵奉(じゅんぽう)せられ、武士道の重要な要素となって発達した。 

それは 武士本位の道徳として、その主従観念が単に武士主従間の恩義の念に止まる時は、君臣の自覚に缼(か)けることもあったが、国民の国家観念が昂揚せられる時は、直ちに君国のため一命を捧げるという大義に進むものであった。 

かの元寇(げんこう)の時、国民上下一致して外敵に當り、よく我が國體(こくたい)の尊厳を擁護(ようご)し奉ったのは、実に武士道精神の発揚に外ならなかった。 

また建武中興から吉野時代にかけて大業を翼賛し奉り、大義に殉(じゅん)じた勤皇諸将の忠勇義烈の精神も、我が武士道の極致であった。 

かくて武士道は永く後世の国民精神に深い影響を与え、今日もなお国民精神の精髄たる我が軍人精神の中に脈々として伝えられているのである。 

 

防人及び東人の忠勇 

是の東人は常に曰く、額(ひたい)には箭(や)は立つとも、背は箭は立たじといひて、君を一つ心を以て護るものぞ。 

(「続日本紀」稱徳天皇(しょうとくてんのう)宣命) 

今日よりは顧みなくて大君の 醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つ吾は 

(火長今奉部與會布) 

天地(あめつち)の神を祈りて幸矢(さつや)貫き 筑紫(ちくし)の島をさして行く吾は 

(火長大田部荒耳) 

武士道の精神 

軍(いくさ)の習(ならひ)、命を君に奉って、職場に罷(まか)り出(い)づる事なれば、再び帰参すべしと 存ずべきに非ず 

「源平盛衰記」 

軍と云うは、家を出でし日より、敵に組みて死なんとこそ存ずる事なれ。 

身を全うせん、命を死なじと思はんには、本より軍場には出でぬには如かず。 

敵に組んで死するは武者の本也。命を惜しみて逃ぐるは人ならず。 

「源平盛衰記」 

弓矢取る身は言一つも輙(たやす)からず。生きても死しても、名こそ惜しけれ。 

「源平盛衰記」 

 

 


【海軍省 練習兵用 歴史教科書】14. 鎌倉幕府の成立
公開日時: 2020-11-15 07:50:39


 

(2)武士の勃興 

国民皆兵の制度 

我が国は肇国以来、天皇御親率(ごしんそつ)の下に、国民皆兵を建軍の本義とする。 

古く氏族制度時代には 大伴・物部の二氏が 同族及び部民を率いて 世々郡司を司どり、ことある毎に 天皇は御親ら軍を率いて出陣し給ひ、各氏族は その部民を率いて軍務に服し、忠誠を盡(つ)くし奉った。 

即ち 神武天皇の御東征以来、神武を発揮して皇威を輝かし給うた御歴代の御聖業には、国民こぞって身命を捧げ、これを翼賛(よくさん)し奉ったのである。 

 

兵制の推移 

後、大寶令によって徴兵制度が施行され、国民皆兵の制度はますますその實が挙げられることとなったが、やがて平安初期になり 国内統一の御事業が概ね完成せられてからは、専ら東国の武技に秀でたものだけが健皃兵(こんでんへい)・随身兵(ずいじんへい)として宮門を護衛することとなり、ここにはじめて武事を専らとするものの発生を見た。 

 

地方武士の発生 

その後、藤原氏擅権(せんけん)の時代を通じて 律令制度が次第に弛(ゆる)み、権門勢家(けんもんせいか)が 荘園として多くの土地を私有するに及び、藤原氏一門の栄華文弱(えいがぶんじゃく)がこれに伴って社会の秩序は次第に乱れ、特に地方は騒然(そうぜん)たる状態となった。 

ここに於て地方の豪族は自衛のため私兵を養い、武技を練って自ら秩序の維持に任じ、やがて次第に勢力を得て 地方に台頭してきた。 

これが地方武士の発生である。 

 

 

源平二氏の興起 

かくて平安末期になり、これら武装した豪族のうちから その統領(とうりょう)して大なる力を有するものが次第に現れてきた。 

これらは多く臣籍(しんせき)に降下せられた皇族、或いは中央の貴族であって、藤原氏が政治を私して権勢を擅(ほしいまま)にしたため、中央に志を得ないこれらの貴族は 地方に移住し、家名を貴ぶ地方武士に推戴(すいたい)せられて その統領となったものであった。 

その中でももっとも著しく現れたものが、桓武天皇(かんむてんのう)の曾孫高望(たかもち)王からでた平氏と、清和天皇の御孫経基(つねもと)王からでた源氏とであった。 

 

二氏の対立と平氏の滅亡 

源氏は古くからたびたび東国の鎮定にその武名を轟(とどろ)かせて 勢力を東国に扶植(ふしょく)したのに対し、平氏は瀬戸内海の海賊を討って西国に勢力を擴張(かくちょう)し、やがて二氏は地方の治安の維持に成功して中央に進出し、遂に両者の勢力は対立することとなった。 

その後、保元(ほげん)・平治(へいぢ)の両乱によって 平氏はその勢力が極めて盛となり、清盛(きよもり)に至って 平家一門はすべて高位高官に登り、遂に藤原氏に代わって 一時政治の実権を握った。 

しかし清盛の横暴が募るに及んで 諸国の源氏は各地に蜂起(ほうき)し、源頼朝(みなものとのよりとも)はこれに応じて鎌倉に兵を挙げ、遂に寿永四年(皇紀1845年)、長門(ながと)の壇浦(だんのうら)に全くこれを滅した。 

 

 

鎌倉幕府の成立 

頼朝は平氏滅亡の後もなほ鎌倉に留まって 士風剛健な東国に勢力を養ひ、建久(けんきゅう)3年(皇紀1852年)、征夷大将軍に任ぜられて 幕府を鎌倉に開いた。 

かくて頼朝は武力を以て県内の秩序を恢復(かいふく)し、武士道を奨励してこれに基づく質実剛園(しつじつごうけん)な政治を行ったから、藤原氏の専横(せんおう)以来、悪政と争乱に苦しんだ地方武士はみな幕府の親政に服し、政治の実権は幕府に移り、遂に武家政治の基礎が定められることとなったのである。 

 

 


【海軍省 練習兵用 歴史教科書】13. 刀伊の入寇
公開日時: 2020-11-15 06:27:16


武士の勃興と元寇(げんこう)の撃攘(げきじょう) 

(1)政治の紊乱(びんらん)と国防の危機 

朝政の隆替 

桓武天皇(かんむてんのう)の平安奠都(てんと)以来、御歴代天皇はますます内治の振興と文教の隆昌(りゅうしょう)を図り給うて、皇威はいよいよ国の内外に輝いた。 

ところが やがて藤原氏が出て 次第に権勢を擅(ほしいまま)にし、遂には摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)となって万機(ばんき)をことごとく専断するようになってからは、朝運も漸(ようや)くお衰え遊ばされていったのは、まことに畏(かしこ)き極みであった。 

 

延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)の聖代 

この間、第60代醍醐天皇は權臣(かんしん)の跋扈(ばっこ)に鑑(かんが)み、菅原道真(すがわらみちざね)を重用して 親政の實を挙げ給ふとともに、大御心(おおみこころ)を深く国政の刷新に注がせ給ひ、次いで 第62代村上天皇(むらかみてんのう)も万機を親裁あらせられて、政道の振肅(しんしゅく)を図り給うた。 

されば この御代は延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)の聖代(せいだい)と称せられ、後の建武中興(けんむちゅうこう)は、この親政の盛時に復(かえ)すことを目標として進められたのである。 

しかしその後、藤原氏の権勢はますます強く幾多の弊害を生じたが就中国家の政治を一門を以て私(わたくし)したことは、大義名分を紊(みだ)すものであるとともに、人材登用の道を塞(ふさ)いで政治の紊乱(びんらん)を来たし、また 多くの荘園(しょうえん)を兼併(けんぺい)して栄華を極めたので、律令制度は有名無実となり、社会の秩序は混乱の極(きわみ)に達した。 

かくて藤原氏擅権(せんけん)の時代を通じ 大化改新の精神は失われ、国家観念の衰退とととに、国民の海外発展の気象も薄れ、やがて国防の危機さへ招かれるようになったのは、まことに遺憾の極(きわ)みであった。 

 

 

国防の危機 

當時朝鮮では 新羅が既に衰えて国政が乱れ、その邊民(へんみん)はしばしば我が沿岸に出没していたが、第59代 宇多天皇(うたてんのう)の御代、賊船が遂に対馬・九州に入寇して来た。 

また 渤海(ぼっかい)の滅後、その地に刀伊(とい)が興り、海賊となって近海を侵略していたが、第68代 後一條天皇(ごいちじょうてんのう)の御代、突然その兵船数十艘(そう)が 対馬・壱岐(いき)の二島を侵し、次いで九州に迫った。 

これを刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)といふ。 

いづれも その地の将兵が よく奮戦して賊船を斥(しりぞ)け、国威を辱めるようなことは些(いささ)かもなかったが、このような外寇を受けたのは、一つには 当時の国民が、海外雄飛の伝統を忘れて攻撃が最良の防御であることを知らず、僅(わず)かに 壱岐・対馬をはじめ九州の沿岸に城塞を築いて防備に専念し、水軍の充実に努力を缺(か、欠)いていたために外ならない。 

 


【海軍省 練習兵用 歴史教科書】12. 聖武天皇と天平文化
公開日時: 2020-11-14 15:23:23


 

(6)国風文化の発展 

国家意識と国風文化 

改新後我が国文化は、国家制度の整備と大陸文化の輸入とによって、年とともに著しい発展を遂げた。 

而してこの時代の文化は、決して単なる外来文化の模倣でなく、国家意識の興隆に伴い、我が国固有の国家観念はますます昂揚せられて、国風文化の発展をみたところにその特色があった。 

 

史誌(しし)の編纂 

国内に於ける統一政治の進展と外来文化との接触とによって、著しく高めらてきた国家意識の興隆は、まず史誌の編纂となって現れた。 

即ち 国史には元明天皇の御代、太安万侶(おおのやすまろ)が稗田阿礼(ひえだのあれ)の誦(よ)む古傳を記録して奉った古事記と、元正天皇の勅令により、舎人(とねり)親王が撰修せられた日本書紀とがある。 

ともに我が肇国の宏遠(こうえん)を説き、御歴代の御聖業を記して余すところがない。 

特に日本書紀は 国家の正史として長く朝廷で重んぜられ、これから平安中期に至るまでの間、国史勅撰のことは引き続き行われて、続日本紀(しょくにほんき)・日本後紀(にほんこうき)・続日本後紀(しょくにほんこうき)・文徳実録(ぶんとくじつろく)・三代実録(さんだいじつろく)が編纂せられた。 

これらと日本書紀とをあわせて六国史(りっこくし)といふ。 

また風土記(ふどき)は元明天皇が諸国に命じて、国内の地勢・産物・伝説等を記し奉らしめ給うた、我が国最古の地誌である。 

 

和歌の発達 

またこの時代には和歌が大いに発達した。萬葉集(まんようしゅう)は 主としてこの時代の和歌を集めたもので、よく我が国最古の風俗・人情を伝えているが、就中(なかんずく)その純朴な歌風のうちに豊かに表現せられている忠君愛国の至誠、敬神崇祖(けいしんすうそ)の精神は、当時の国民が如何に熱烈な国家観念に燃えていたかを示している。 

 

仏教の興隆 

仏教も聖武天皇(しょうむてんのう)の御代を中心として、遥かに前代を凌ぐ興隆を示したが、当時の国家観念の昂揚に伴い、国家鎮護(ちんご)の教法として発達したところに、この時代の仏教の特色があった。 

即ち聖武天皇は仏教の功徳(くどく)により国家の隆昌、国民の福祉をお求めになり、数多(あまた)の寺院・仏像などを造らしめ給うたが、就中 天平年間、万民の災厄(さいやく)を払い、天下を安泰ならしめるために、国毎に僧・尼の二寺を建てしめ給うた。 

これがいわゆる国分寺及び国分尼寺(こくぶんにじ)である。 

また 天平15年(1403)、天皇は大仏鋳造(だいぶつちゅうぞう)の御事を発願(はつがん)あらせられ、第46代孝謙天皇(こうけんてんのう)の天平勝寶(てんぴょうしょうほう)4年(1412)、遂にその竣巧(しゅんこう)を見たが、その偉容はまさに国運の隆昌を象徴するものであった。 

またこの時代の仏教の興隆が仏教の慈悲の精神に基づき各種の社会事業を盛ならしめたことも、すべて当時に於ける国家意識の発露であった。 

 

天平文化の精華 

かくて 聖武天皇(しょうむてんのう)の御代を中心とする奈良時代は、大化改新以来の革新政治が皇都の完成を以て実を結び、国威は海外に輝いて唐との通交も好調を保ち、ここに仏教の興隆に伴って美術・工芸に於ても燦然(さんぜん)たる文化の華が開かれた。 

これを世に天平文化と呼ぶ。 

而して天平文化は唐の文化の影響を受けて発達したものであったが、更に唐の文化の起源を探れば、印度・波斯(ペルシャ)等の文化、更に遠くはギリシャの文化が いわゆる西域(さいいき)諸国を経て支那に入り、支那固有文化に強い影響を與(あた)へ、唐の文化として大成せられたものであった。 

随って我が天平文化は実に東西文化を融合し、これを我が固有文化に同化せしめた宏大(こうだい)な世界的文化であった。 

ここに天平文化の我が国文化の精髄たる所以がある。 

 

国家意識の昂揚 

皇者神二四座者天雲之雷之上爾廬為流鴨 (柿本人麿) 

御民吾生有験在天地之榮時爾相樂念者 (海犬養岡麿) 

 

天平文化の世界的性格 

 

 


【海軍省 練習兵用 歴史教科書】10. 大宝律令
公開日時: 2020-11-14 12:32:24


(5)國内制度の整備 

律令の制定 

齊明天皇(さいめいてんのう)の崩御後、中大兄皇子が即位し給うて、第38代天智天皇(てんじてんのう)と申し上げる。天皇は大化改新の大精神に基づきますます統一政治の徹底を期し給うて、法制の整備にお努めになった。 

爾来 歴代天皇は大御心(おおみこころ)をその完備にお注ぎになり、第42代文武天皇(もんむてんのう)の大寶(たいほう)元年(1361年)、大寶律令(たいほうりつりょう)・(大宝律令)が完成せられた。今に遺(のこ)るものは元正天皇(げんしょうてんのう)の養老2年(1378年)に修正せられた養老律令(ようろうりつりょう)であるが、これは大寶律令と大差ない。 

 

令(りょう)の内容 

令(りょう)は一般の行政法規で、その規定によれば 

(一)先ず官制に於ては、中央に神祇(じんぎ)・太政(だじょう)の二官が置かれ、神祇官は最も重く神祇(じんぎ)・祭禮(さいれい)を司どり、太政官は中務(なかつかさ)・式部(しきぶ)・治部(ちぶ)・民部(みんぶ)・兵部(ひょうぶ)・刑部(おさかべ)・大蔵(おおくら)・宮内(くない)の八省を統括して、その他の諸政を司どった。 

地方には国司(こくし)・郡司(ぐんじ)を置いて行政に當(あた)らしめ、別に都には左右京職(きょうしき)、外交・国防の要地である筑紫(つくし)には 大宰府(だざいふ)が置かれた。 

(二)次に 兵制は国民皆兵の徴兵制度であって、全国の壮丁(そうてい)の三分の一を兵士とし、諸国の軍団に廃して武技を練らしめ、選ばれたものが衛士(えじ)として都に上り、五衛府(えふ)に配せられて宮門(きゅうもん)を守り、特に東国(あづまのくに)の武技に秀でたものは 防人(さきもり)として筑紫(つくし)、その他の邊要(へんよう)の地に派遣せられ、国防に當(あた)った。 

(三)学制としては、主に官史の子弟の養成を目的として、都(みやこ)には大学、諸国には国学(こくがく)が置かれた。 

(四)その他 全国の土地・人民を公地公民としてこれに班田収授(はんでんしゅうじゅ)の法を施(ほどこ)し、租庸調の税制を課することは 大化改新の制度そのままであった。 

 

律の大要 

また律は 今の刑法に當り、国民生活のすべての方面に関する罪が挙げられ、刑罰が定められた。 

即ち刑罰には 笞(ち)・杖(ちゃう)・従(づ)・流(る)・死(し)の五等があり、我が国情から謀反(むほん)・大逆(たいぎゃく)・不孝・不義等の国家・皇室或いは父母・上長に対するものが特に重罪とせられた。 

 

律令制度の特色 

このように律令は、範を主として唐制にとって制定せられたものであるが、よく我が国古来の国情や国民生活を斟酌(しんしゃく)し、あくまで我が國独自の精神によって貫かれているのであって、単なる唐制の模倣(もほう)でなかったところに 我が律令制度の特色があった。 

 

皇都の建設 

かくて内には政治の諸機関が次第に備わり、また外に大陸諸国と交通もますます頻繁となって、ここに壮大な皇都の建設が行われることとなった。 

即ち元明天皇の和銅(わどう)3年(1370)、奈良に都を御奠(さだ)めになってから、第49代光仁天皇(こうにんてんのう)の御代まで七代70余年の間、この地は我が国の皇都となったが、この新都は 東西四十町、南北四十五町、朱雀大路(すざくおおじ)を以て 左京・右京に分かち、その北端に宮城を置き、條坊井然(じょうぼうせいやん)として壮麗極まりなく、ここに政治と文化の華が開かれた。 

世にこれを平城京といふ。 

次いで桓武天皇(かんむてんのう)の御代になり 京都に都を移し給うたが、その規模と都市の美観は更に雄大・壮麗を極め、明治維新に至るまで長く我が皇都となり、文化発展の中心として繁栄した。 

これを世に平安京といふ。 

 


渤海の入貢
公開日時: 2020-11-14 07:13:32


(4)国威の発展 

東北経営 

大化の改新後、国力の充実に伴って 国威はいよいよ発展し、国の内外に輝くこととなった。 

先ず圏内に於いては東北の開拓がある。即ち第37代齊明天皇(さいめいてんのう)の御代、阿部比羅夫(あべのひらふ)は 水軍を率いて 秋田・津軽に進み、渡島(わたりじま)の蝦夷(えぞ)をも帰服せしめ、更に肅愼(みしはせ)に遠征して 皇威を遠く輝かせたが、その後もこの地方の経営は著しく進み、第43代聖武天皇(しょうむてんのう)の御代には 陸奥に多賀城(たがじょう)、出羽に秋田城が築かれて大いに開拓が進められた。 

 

蝦夷の帰服と撫育 

次いで 第50代桓武天皇(かんむてんのう)の御代、坂上田村麿呂(さかのうえのたむらまろ)は よく恩威(おんい)を並び施して 蝦夷を屈服せしめ、膽澤(いざわ)・志波(しは)の両城を築いて東北経営の根拠としたので、御歴代の皇化普及の御苦心は 遂に実を結んで、東北経営もほぼこの時代を以て完成した。 

この間、帰順した蝦夷に対しては これを全国に配置して撫育(ぶいく)を加え、やがてこれらは全く国民のうちに融合して皇恩の広大無辺(こうだいむへん)を仰ぎ奉った。 

 

 

南島の入朝 

また西南方面においても推古天皇の御代以来、元明天皇の御代にかけて、掖玖(やく)(屋久島)・外褹(たね)(種子島)・奄美(大島)・度感(どこ)(徳之島)・信覚(しがき)(石垣島)・球美(くみ)(久米島)等の九州以南諸島の住民が皇化を慕って続々入朝し、皇威は琉球にまで及ぶようになった。 

また九州南部の隼人(はやと)も 第44代元正天皇(げんしょうてんのう)の御代には全く帰服した。 

かくて新政の大精神に基づき国内統一の実が挙げられるとともに、国威は更に海外に輝いたのである。 

 

半島の離反 

當時大陸では隋が既に亡んで、これに代わって唐が興り、朝鮮半島では新羅の勢がますます強くなって、唐の力を借り、高句麗・百済を滅ぼして半島を統一しようとする形勢にあった。 

齊明天皇(さいめいてんのう)は百済救済のため、皇太子中大兄皇子とともに御親(みずか)ら九州へ軍を進め給うたが、程なく同地で崩御(ほうぎょ)あらせられた。 

皇太子は天皇の御意志を継いで 大軍を半島にお遣わしになったが、時に利あらず、百済・高句麗が相次いで亡んでからは、専ら国力の充実に邁進せられることとなった。 

 

遣唐使の派遣 

しかし大陸との交通はこれによって衰えることなく、国運の隆昌(りゅうしょう)とともにますます隆(さか)えて行った。 

即ち 朝廷は国威の宣揚と文化摂取(せっしゅ)のため、しばしば遣唐使(けんとうし)を派遣し給ひ、当時は航海の危険が極めて大であったにもかかわらず、使節は敢然(かんぜん) 東支那海(ひがししなかい)を乗り切って使命を全うした。 

国民もまた争って大陸に渡航し、文化の摂取と知識の吸収に努め、旺盛な海外発展の精神を遺憾なく発揮した。 

 

渤海(ぼっかい)の入貢 

かくて聖武天皇(しょうむてんのう)の御代には、当時、朝鮮北部・満州・沿海州に亙(わた)って建国した渤海(ぼっかい)も、皇化を慕ってしばしば入貢するようになり、我が国からも使節が派遣せられた。 

これらは当時に於ける国威の発展と国民の海外発展の気運が、いかに旺盛であったかを示すものである。 

 

 


米国次期大統領と日本の首相の電話会談
公開日時: 2020-11-14 04:31:43


今回は、米国次期大統領への祝電と電話会談の件について意見を述べさせていただきます。 

  

まず、大前提としまして、11月14日現時点において、米国次期大統領は決定していないと言うことです。 

  

通常の政権移行のプロセスとしては、11月3日の投票の翌日から翌年の1月20日の大統領就任式までの77日間、国家安全保障など機密情報へのアクセス権限や、連邦政府内の各施設の使用許可や、独自のEメールの付与などが、政権移行チームに当たられます。 

  

この様なプロセスを経て、スムーズな政権移行が行われるのですが、現時点において、次期大統領と言われているバイデン陣営には、このアクセス権限が与えられていません。 

  

このアクセス権限は、GSAと言う政府機関が承認して与えるのですが、GSA長官のエミリー・マーフィー氏は、この承認を拒否しています。理由は、まだ正式に次期大統領が決まっていないからです。 

  

次期大統領が決まるのは、選挙の開票が終了し、その結果を受けて片方の陣営が敗北宣言を出すことによって、勝者が決まります。 

  

ただ今回は、選挙の開票がまだ終わっておらず、どちらの陣営も敗北宣言を出していません。現職のトランプ大統領は、不正選挙が行われたとして、いくつかの州で再集計を求めており、実際、その再集計が始まった州があります。また、訴訟も起こしているので、その裁判結果が出るまでは、正式に次期大統領が決まらないと言うことになります。 

  

似た様な事は2000年、ブッシュ氏とゴア氏との間でも起こりましたが、この時は、3回の再集計が終わり、ゴア陣営が敗北宣言をしたことにより、次期大統領が正式に決まりました。 

  

従いまして、11月14日の現時点では、これから各州で再集計が行われようとしており、また裁判が行われようとしている段階なので、次期大統領が正式に決まるのは、まだ先の話と言うことになります。 

  

しかし、この様な次期に、菅首相は、11月9日にバイデン氏に祝辞を送り、また、11月12日には電話会談をしてしまいました。 

  

なぜ、この時期に慌てて、バイデン氏に祝電や電話会談を行ったのでしょうか? 

  

11月7日に大手マスメディアが、バイデン氏当確と放送しました。おそらく、このNHKなど大手マスメディアの放送を受けて、バイデン氏が次期大統領に正式に決まったのであろうと思い込んでしまったからだと思います。 

  

しかし、先ほどもご説明した通り、まだ決まっていません。 

  

上院多数党院内総務のミッチ・マコーネル氏は、「メディアに大統領を決める憲法上の権利は与えられていない。トランプ氏が不正選挙について調査し、法的選択肢を検討する権利も100%有している。」と、上院議会で話しました。 

  

「米国には大統領はトランプ一人ですし、国家安全保障の情報アクセス権限を持っているのはトランプ政権のみである。」 

  

これは、ポンペイ国務長官がFOX TVのインタビューに答えた事実になります。  

  

すなわち、これが米国政府の公式見解と解釈できます。  

   

まだ正規に次期大統領と認定されていない人物が、各国首脳と電話会談している件について、ポンペオ国務長官は次の様に答えました。  

  

  

「挨拶程度なら構わないが、あたかも次期大統領として国家安全保障上の内容について話をすることは、違法行為となりかねない」  

  

  

とポンペオ国務長官は、釘を指していました。  

  

 

日本の菅首相が、まるで次期米国大統領であるかの様に振る舞っているバイデン氏と電話会談で、尖閣諸島についてなど国家安全保障に関する内容について話し合った、と言う事実は、後々、米国内で問題となるかもしれません。 

  

まだ、菅内閣が発足して間もない時期に、この様なことに巻き込まれてしまったら、国会で野党から激しく追求されてしまうことも予想されます。 

  

  

まだ、バイデン陣営との戦いを続けているトランプ氏が、菅首相の行動を見て、どう思っているでしょうか? 

  

過去4年間、安倍元首相とトランプ大統領との信頼関係に基づいた日米関係の強い絆が、大きく崩れ去ってしまうかもしれません。 

  

なぜなら、来年1月20日の大統領就任式で、トランプ氏が大統領として再任されるかもしれないからです。 

  

政府公式見解として、すぐに以下の様な内容のコメントを発表して欲しいです。 

  

「現時点で正式な大統領が決まっていないと認識しており、正式な米国大統領が決まるまで、事態の推移を見守る。」と。 

  

もし、この様なコメントを公表しないのであれば、日米間に大きな「しこり」が残ってしまうでしょう。 


【海軍省 練習兵用 歴史教科書】9. 大化改新
公開日時: 2020-11-13 14:28:35


 

(3)大化改新(たいかのかいしん) 

蘇我氏の滅亡 

国家革新の御事業半ばにして聖徳太子が薨去(こうきょ)せられてから、蘇我馬子(そがのうまこ)は独り権勢を擅(ほしいまま)にし、その子蝦夷(えみし)、その孫入鹿(いるか)になって不臣の行為は極まるに至った。 

舒明(じょめい)天皇の皇子中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)はこれを見て 中臣鎌足(なかとみのかまたり)と謀り給い、第35代皇極天皇(こうぎょくてんのう)の4年(1305)、入鹿を御親(みずか)ら誅し給うた。蝦夷(えみし)も家を焼いて自殺したので、蘇我氏も遂に滅んだ。 

 

大化改新の発端 

かくて蘇我氏の滅亡とともに聖徳太子の御意志はいよいよ実現せられることとなった。 

即ち 第36代孝徳天皇(こうとくてんのう)は 先ず中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)を皇太子とし、鎌足を内臣(うちつつみ)に任じ、支那に学んだ高向玄理(たかむくのくろまろ)・僧旻(みん)を國博士(くにつはかせ)とし、それぞれ国政に参与せしめ給うた。 

次いで 天皇は群臣を召して天神地祗を祭り給い、我が肇国以来の大義名分に基づき、天皇御親ら新政を行い給ふの御決意を明らかにせられ、はじめて年号を建て、大化(たいか)と称し、翌2年(1306)、改新の大詔(たいしょう)を発して新政を断行し給うた。 

 

改新の大詔によれば 

(一)これまで豪族の私有していた土地・人民をすべて公地公民(こうちこうみん)とせられた。 

(二)戸籍を作り、国民にはすべて男女とも6歳になれば一定の田を班(わか)ち授け、死ねば朝廷に収めることとせられた。これを班田収授(はんでんしゅうじゅ)という。 

(三)新たに税制を定めて、祖・庸(よう)及び調(ちょう)をすべての国民に課せしめられた。 

(四)これまでの官制を改めて、中央に於いては大連・大臣を廃して八省百官を置き、地方には国造(くにのみやつこ)・懸主(あがたぬし)等を廃し、新に國・郡を分かって国司(こくし)・郡司(ぐんじ)を置き、いづれにも官職世襲の制度を改めて廣く人材を登用することとせられた。 

 

大化改新の意義 

かくて 豪族跋扈(ばっこ)して国政を専断し、土地人民を私有して君臣の分を紊(みだ)していた氏族制度時代末期の弊害は、ここに全く除去せられ、国政の刷新により、わが肇国の大理想に基づく天皇御親政の統一政治が再び実現せられて、一君万民の國體に基づく皇威の伸張、国力の充実が期せられることとなった。 

世にこれを大化改新という。 

 

大化改新の御決意 

天は覆い地は載せ、帝道唯一なり。而るに 末代澆薄(うすら)ぎて、君臣序を失へり。 

皇天手を我に假(か)し、暴逆を誅し殄(た)てり。 

今共に心の地を瀝(しだ)みつ、而して今より以後、君は二つの政無く、臣は朝(みかど)に貳(そむ)くこと無し。 

若し此の盟に貳(そむ)かば、天灾(わざわい)し、鬼誅して人伐ち、皎(いちじる)きこと日月の如し。 

「日本書紀」